3/1

えりぞさん、こんばんは。大変個人的かつ失礼な質問であると自覚しておりますのでご不快でしたら回答いただかなくても結構です。申し訳ございません。
私は3年ほど交際した恋人(男性)と昨年結婚しました。交際期間中にADADとASDと診断されました。またIQも大変な凸凹があり、低い項目だけだと知的障害にカテゴライズされます。彼は診断結果を知った今でも私との子供を望んでいるのですが、私はどうしたらいいのかずっと悩んでいて答えが出せません。姉(未診断ですが言動に私と同じような傾向があります)の娘はあと2歳になりますが、発話なしです。えりぞさん、えりぞさんはご自身の診断がついたあとだったとしても子供を持つことを選択されたと思いますか?私は愛する夫の望みを叶えたいのですが、生まれてくる子供が私同様つらい思いをするのではないかと心配でなりません。それなのに、私もロケットペンシルの芯になりたいとも思ってしまうのです(小さな頃から生きる意味に興味がありました。意味がなくても芯として生を全うできるなら…というあるしゅエゴのようなものも私の中に出てきています)支離滅裂で申し訳ありません

こんばんは。似たようなところのある方からお話が聞けて嬉しいです。ありがとうございます。 私は子どもを持たないつもりで生きてきました。それは生まれてくる子どもの幸せなどとは一切まったく関係なく、自分の人生にとり重荷になるだろうということ、自分がその重荷に耐えられないと考えていたからです。 妻と2人で生きたくて、20代前半で結婚しました。この件も妻と何度か話しましたが、30歳前で妻が「やっぱり子どもが欲しい」と言い出し、私も同意して作りました。 「発達障害(ASD、ADHD、LD)」の診断はまだ下りていませんでした。IQが全体で見ると「低め」であり、低いところをみると知的障害のゾーンが半分あるというのも知りませんでした。とはいえ、もともと学校にも行けませんでしたし、勉強にもついていけませんでしたから、自分の脳に何か知的な、精神的な問題があるということは僕も妻も認識していました。 子ども作ることになってから生まれるまでの当時の僕の口癖としては「『こうのとりのゆりかご』がある」というものです。赤子、子ども、思春期……子どもを育てることが不安でした。「できない」と今でも思いながら生きています。 子どもの人生は背負うには大きすぎ、そして長すぎる。責任というものは負えません。どんな人であろうと、子どもの人生に責任を負うことは出来ないと思っています。 30歳で娘が1人、35歳で娘が2人産まれました。生まれて来れば目の前に子どもはいます。なにもできない人がそこにいました。次女に至っては呼吸すら1人ではできなかった。ですが、目の前の赤子が私を求めているとわかるのです。強烈に、私を必要とする、何もできない人が。それだけが現実でした。 自分と妻にとり、そして生まれてきた彼女たちにとり良かったのか、結論はありません。衣食住を用意し保育園に連れていきゲロとウンコの処理をする日々です。なにか遠大な「子育て」というものはありません。裸の人間に服を着せたり、お腹を空かせた人間にミルクをやる。その時必要な世話をするだけです。 その後私が受診した精神科で、覚悟していたとはいえ、IQや発達障害についての診断は私にはある種ショックでしたが、妻には「この所見に書いてあることは、私から見た君について、数値化して専門的に書いてあるに過ぎない。なにも変わらない。知っていた話だ」と言われました。 むかし、私の母親は死ぬ数日前に、ホスピスのベッドで私と弟を手招きし、両肩に強く抱いて「産んでよかった」「会えてよかった」と言っていました。私と弟は涙を流しましたが、本当に母親がそう思っていたのか、一種の負け惜しみみたいなものなのか、私と弟に、「母はそう思っていた」と思って欲しかったのか、答えはわかりません。 ただ、私は娘たちに会えてよかったと思っています。長女は私同様にアスペルガー傾向があり、超低体重で産まれた次女は歩いたり、話すことが遅れています。ですが、私に今後何があろうと、彼女らに何があり、何をしようと、会えてよかったと思っています。それは覆らないような気がしています。 もし時間を巻き戻して、子どもがいないころに戻って精神科を受診し、妻に診断書を見せたとして、私たちは子どもを作ろうとすると思います。 今も子どもの人生の責任を負おうとは思っていませんし、負えるとも思っていません。負える人もいないと考えています。子どもの人生に責任を持つ、持てるという人は嘘をついています。 親は世話をすることしかできません。いま子どもたちは自分と妻を求めています。それに応えられるだけ答えるというのが、私にとっての「ロケットペンシルの替え芯としての人生」です。それ以外のことをやっている人生もあるんです。 「ロケットペンシルの替え芯としての人生」ってのは、親をやっている時間だけの話でもあるんです。それだけの人生になるわけではないと思います。

スポンサーリンク

スポンサーリンク

スポンサーリンク