
ひとまず〈助けたくなる弱者の形〉について俺なりの考えをお答えしましょう。 『他人の助けとは、己が人事を尽くしたその延長上に、あったら有難いがなくても仕方ないこと』 ってのがわかってる人間ですね。 要は身の程を弁えているんです。 つまり、助けてもらえないことを悲観したり逆ギレしたりした時点で、『助けてもらって当然』という間違った認識を標準装備しているので、もう〈助けたい形〉ではありません。 人から助けてもらう前提で生きている人間は、補助込みで平常運転を見積もるから、人事を尽くせないのが基本です。 そして人事を尽くさないから地力は成長せず、いつまでも弱者であり続ける。一生荷物であり続ける。 こうした、他者の助けを前提としている人間側から見て〈本当に助けが必要な人間〉というのであれば、まさしく〈助けたい形〉ではないのでしょう。 しかしそもそも、〈本当に助けが必要な人間〉など存在しないんですよ。 誰しも、助けがない状態こそが、自分の身の丈なんです。まずそこを100%としなければならない。 独力で20点しかない出せない人間は20点を100%として生きるべきであるし、 独力で80点出せる人間は80点を100%として生きるべき。 それができていれば、たとえば俺が20点の人に5点の助けを入れたとする。 その人が本当に身の程を弁えているのなら、125%になって幸せに溢れます。 その様子を見て「助けて良かった」と思えるんですよ。 これがどうでしょうか。 独力で20点しか出せないくせに、20%自認の弱者だとしたら。残りの80%を他力で補う前提を持っていることになる。そんな人に10点の助けを与えたらどうなると思いますか? 「私はまだ30点しかない可哀想な弱者だから100点に届くようにもう70点寄越せ」と世界に吠えるんですよ。 「助けろ」と煩い人間は、目標点に届くまで他者に要求するんですよ。 給与を上げろだとか、国が金を出せとか、社会保障を厚くしろとか。60点ぐらいの弱者でもない人間が、社会に+20点を要求するサマはよく見かけますよね? 「金がないから子どもを作らなくなる」とか言ってる奴はその典型です。 きちんと「お願い」できる人は違いますよ。 「お願い」が断られても100%、「お願い」が通って5点助けてもらえたら125%。ということがわかっているから、断られても文句を言わないんですよ。これが〈助けたい形〉です。 なお、これはあくまで俺の考えですよ。 同じ考えで言語化できてない人はいるだろうけど、もっとシンプルに【見た目が良ければ〈助けたい形〉だ】と言う人もいるかもしれません。
スポンサーリンク
思ってたより力天使さんになんでも質問しよう!
質問
スタンプ
利用できるスタンプはありません。
スポンサーリンク
過去に答えた質問
スポンサーリンク