
①ガンツでは、人生の終了からスタート→メンバー毎によって立ち振る舞いが違う→対立 と言う構図が体系としてあるんですが 虚無主義(調べました。用語について小手先ですが知識を入れた上で自分の価値観を綴ります)というものの着想の出発点が僕の調べた通り”事物には全て終わりがある”みたいな考えなら、価値が無になった人生からの再出発は、ニヒリズムとしての生の誕生と同義だと思っていて(”個”の捉え方次第では、GANTZによって生き返った人がニヒリストとしての生を受けた事になる、という考えに欠陥が生まれるので補足すると、【GANTZによって生き返る人は”オリジナル”の複製に過ぎないと言う描写】が僕のこの考えの根本です。オリジナルとコピーの同一性に”個”を求めるのであれば、話は変わると言う事です)その意味でGANTZで生き返った(生まれた、?)キャラはほぼニヒリストと捉えて良いと思います ②キャラを大まかに受動的or積極的に分けて考えてみると、清々しいくらいに積極的ニヒリストしかいません 【考えの手順】 ⅰ仮定として①の理由で全員ニヒリストであり2タイプの何方かに分別される ⅱ→受動的ニヒリスト は 虚無主義の中でも 無の自覚がきっかけでこれまでの過程やこれからの決定を放棄するイメージ ex.)高く積み上げた積木の大部分が崩落。酷く落胆したが積木は依然として周りの友達の誰よりも高く積み上がってる、しかしそこで受動的ニヒリズムの考えに至り、全ての仮定とこれからの決定を”放棄”(積木を破壊、競争から降りる、etc...)する を小手先の知識から得たので、それベースで考えてみると、その様なGANTZキャラは居ないと判断しました(最終巻ラストの死を待つのみの異星人ですら、死ぬ前にクロノを倒す事を渇望してた) ⅲ→なら残りは全員積極的ニヒリスト、、、(?) 知識が浅いからこう言う考えになるのかも知らないけれど、まあ割と詰めて考えたつもりなので質問者(多分おまえあいつだろ)ごめんな ③という風に1回目の試行じゃ上手くいかなかったけどここまで書いてこの大量の文字をなかった事にするのもシャクなので、GANTZから離れて別アプローチ。 小手先の知識を得て、三四郎の小宮がノストラダムスの予言を信じて勉強を放棄したと言う話がまさに受動的ニヒリズムなのではと発見 概要は自分で調べて欲しいんですけど、受動的ニヒリズムの粋な使い方を見出しました 質問者の言う 部分的受動的ニヒリズム について 小宮 を 希望的観測で見積もった IF小宮 とおいて留年の裏側にあるアナザーストーリーを想像しましょう IF小宮はノストラダムスの大予言を信じ憂いて憂いて、底知れない積極的ニヒリズムに追突。「こうなったらどうにでもなれ、何もかもやり切ってやる!!!!!」やりたい事が溢れたIF小宮は時間の使い方を迫られた「世界が終わるなら、本来やるべき事を放棄できるやもしれん…」こう考えた小宮は、学生生活において大部分の時間を占める”勉強”を捨てる事にした(無の結末から今までの勉強とこれからの勉強に関する決定を放棄) 結果、予言は外れ、小宮はやりたい事がやりまくってバカになって、芸人になった〜end〜 ↑これ、部分的受動的ニヒリズムの肯定例になりませんかね??? 積極的ニヒリズムのサポートとしての部分的受動的ニヒリズム。一つの大きな積極的ニヒリズムの為の部分的受動的ニヒリズムは、積極的ニヒリズムに内包され、肯定。みたいな あっ、今思えばGANTZにもそう言う描写ありますね GANTZだけじゃなく鬼滅の刃とかもめちゃくちゃ顕著だと思うけど ”片手、片足を敵に飛ばされながらも敵に戦う姿勢”は、まさに 部分的受動的ニヒリズム:「あ〜あ、どうせ傷付いたってコピーとして再生される、腕の一本、足の一本くれてやる」 積極的ニヒリズム:「どうせ死ぬならコイツを倒す!」 と解釈しても差し支えないのでは無いでしょうか…!!! とりあえず①〜③を踏まえた上で自分の価値観を述べると、部分的受動的ニヒリズムはニーチェが肯定してない理由は小手先故に知らないけれど、自分で考えを深めようと努力した結果 世論・・・GANTZやその他の有名漫画の描写における部分的受動的ニヒリズム+積極的ニヒリズムの美学 自己分析・・・自己執筆の三四郎のIFストーリーにおける積極的ニヒリズムの要素としての部分的受動的ニヒリズムの例 の二点から、肯定されてもいいのかなと思う! 知らない事を1から考えるの楽しかったのでまた質問待ってます、感想とか指摘あったらください、たかいち
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