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過去生において、尊師と法友であったこともあるという釈迦牟尼は、一般的には、難行、苦行を否定したということになっていますが、オウムの修行を体験したものとしては、事実はそうじゃないような気もするのですが、どうでしょうか?

難行・苦行と徹底的修行する・極限的に修行するというのを混同されていると思います。 例えば立位礼拝にしても、何十時間、何百時間とやり続けると、足が痛い、腰が痛い、腕が上がらない、声が出なくなる。いろいろな現象が起こります。 それももっとやり続けることによって、カルマが落ちて抜けてきます。だからそこで肉体的な苦痛を味わうことは大いに意義があります。 例えば、わたしの場合、ザンゲの瞑想やヴァヤヴィヤをやってますが、やり続けることによって悪業のカルマが浄化されていきます。 それは悪業(カルマ)が落ちるまでは徹底的にやる必要があります。 悪業が落ちなければ、今後も苦しみ続けることになるので、悪業を完全に滅するまで、ザンゲの瞑想を何百万回だろうと、ヴァヤヴィヤ何千時間何億時間になろうとやらないといけません。 それは悪業が落ちるまで徹底してやるべきです。 苦行とはこういうのですよね。少しは悪業(カルマ)が落ちるというのはありますが、やっても意味がありません。 時間と労力の無駄になりますよね。 ・一生、髪の毛を切らず、洗わない ・転がりながらインドを横断する ・鋭いイバラの中に身を横たえる ・1973年からずっと右腕を上げ続ける

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