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ご教示願いたいのですが、「編集者なのにコンテンツでテキトーな話をしているのは、編集者としての能力を疑う」という発言は、とどのつまり「能力Aが求められる職業に就く人が、職業現場以外のところで能力Aに欠ける振る舞いを見せたため、彼には能力Aがないように見え、職業現場においても彼は能力Aを振るえてないのではないかと邪推してしまう」ということと思います。職業に能力Aが求められるからといってそれ以外の場でもその能力を振るう必要はないのでその意味でこの邪推は(本人も言うように)「大きなお世話」、または自身のコンテンツの精度を高めることと他者の文章の精度を高めることは同じ能力か怪しいのでこの邪推は「的を外している」という評価はあると思うのですが、これが個人の個性や信念の批判すなわち「人身攻撃」にあたるようにはあまり感じませんでした。私からも例を挙げると、「本業で高校数学の講師をしていると自称する人が、本業以外の場で三角関数を理解していない素振りを見せた。彼は本当に数学教師の役割を完遂できるのだろうかと勘繰った」とき、これは人身攻撃なのでしょうか。よく分からなかったので、化学史たんの見解をお聞きしたいです。

ある種の推論をして個人的な人物評をするのは、正当な評価になることもあるでしょう。ここでの正当とは、論理的な飛躍がなく事実であると認められる、または飛躍が少なく確証度の高い推測であるというぐらいの意味です。 私が問題にしているのは、仮にそのような正当な人物評であっても、その人物の主張を批判するための論理的な根拠にはならないということです。英語版Wikipedeiaを参照すると、性格や動機やその他の属性を攻撃する修辞戦略とあります。 「言語学的な真実や言語学の学習者のために、言語学youtuberは何をするべきで何をするべきではないか」というのが大枠の議論であったように思うのですが、そこから「彼は職業的な能力も低いのだろう。だから彼は損をするだろう。改めるのが彼のためだ」という人物評を引き出すのは議論の趣旨から完全に外れています。 また、「もしよい仕事をしているのであれば、コンテンツもある基準をクリアする」という前提は質問者のご指摘のとおり、恣意的です。この前提の対偶をとって「彼はコンテンツがある基準をクリアしていない。この基準をクリアしないならば、よい仕事もしていない。したがって彼の仕事はろくなものではない」という帰結が引き出されています。つまり、コンテンツがある基準をクリアしていないという属性を攻撃して、仕事もろくなものではないと人物評をおこなっていることになります。これは明白な人身攻撃です。

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