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中世カトリックにおいて、スコラ哲学の父と呼ばれたカンタベリーの大主教アンセルムスの「神の存在証明」についてどう思われますか?現代でも通用する正しい説だと思いますか?ちなみにその神の定義である「それよりも大なるものの考えることが出来ぬ何か」 (aliquid quo nihil maius cogitari possit)においては、「大なるもの」が「偉大なもの」とも訳されることがありますが、māiusは形容詞māior「より大きい」の中性形であり、両方の意味があるので、ここでは「大なるもの」として解してお答え下さい。
たしかにカントなどから批判されてはいるし、僧侶ガウニロの「完全な島」理論で論破された観もあり、中世ヨーロッパ社会では自明の事実の如く通用していたことが必ずしも科学が進んだ現代の異教社会では通用しない…といったことはあるかもしれませんが、形而上学ないしは存在論という土俵に立つ以上、アンセルムスの神の存在証明は現代人にも通用すると私は思っています。
中世であれ現代であれ、大別して有神論も無神論もおよそ「神」について論じること自体において、人間の頭の中、思考においては「神」が観念としてであれ存在しているということは言えるでしょう。問題はその「神」が現実世界にも実在しているか否か…?です。人間の頭の中に観念として存在していて、その外の現実世界にも実在しているものがあると仮定した話は、大きさを測れるものと測れないものとの比較になるのでそこはともかくとして、聖書では「神」は遍在していると言われており(エレミヤ23:24他)、その点で聖書の三一神は御自分の外に造られた世界を包んでおられると言えます。また、創造主は人間が手で造った神殿には入れない、お住みになれないと言われています(列王記上8:27、使徒7:48、17:24他)。神殿には大きさで入らないという物理的な意味ではなく、相対的なものが絶対的なものを容れることはできないという霊的な言い方で言われています。その意味で、アンセルムスの神の定義…「それよりも大なるものの考えることが出来ぬ何か」 (aliquid quo nihil maius cogitari possit)は現代のキリスト教宣教においても通用すると思うのですが、御見解をおきかせ願います!

「アンセルムスの神の定義...は...宣教においても通用する」か、とのご質問ですが、私は「アプローチの一つとして特定の方々には通用する」とは思います。 ただ個人的に、この理論を聞いてどれだけの方々が納得をし、キリスト教の神を信じるようになるほど心が動かされるのかは正直疑問です。 #JMC質問箱

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