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自由意志は信じますか??

最近の話で自由意志は存在せず、元からある肉体に外部の環境が情報として伝わり、ただ反応しているだけ。
つまり全部あるべくしてあるだけなんて話もあるそうです。

そうなると、この先も今までも、関数が多すぎて予測ができないだけで決まった人生を歩くのかなぁ、と半ば諦めのような気持ちになってしまいます。 
どうお考えでしょうか?

以前にも同じ質問がありました。 まず、自由意志だけでなく、あなた自身もあなたの認識する世界も森羅万象の全てが幻の如きものなのです。しかし幻というものは存在しないという意味ではなく、幻という仮象の形で確かに存在しているのです。電源を落としたらデータだけ残して全てが消えてしまうゲームのように。 我々が認識している世界は仮想現実でありRPGです。これは例えではなくそのものズバリです。全てはクリエイターが最初からプログラム済みなのであり、だからこそ僕らは自由に楽しませて貰うことができるのです。 RPGの中でプログラムされていない選択をすることは不可能であり、そもそも僕ら自身もプログラムされたアバターの如き存在ですから、クリエイターが想定もしていない事を思考する事自体が不可能なのです。 せっかくクリエイターが我々を楽しませるために与えてくれているRPGを「自由がない」などと不満に思う事はナンセンスです。もし完全に自由なRPGが存在するなら、それはプレイヤーの想像力に全て依存するものになりますから、プレイヤー自身が一からルールから何から全てを創り出さなくてはならなくなり、プレイヤー自身がクリエイターとなってしまいます。全てが思い通りになる世界というのは何もないのと同じでとてもつまらない世界であり、想像の基盤となる足掛かりすらが存在しないということになります。RPGを創り出す想像力というのはルール(縛り)のある思い通りにならないこの現実世界を経験していなければ育まれようがありません。 完全に自由な状態というのは、不老不死で全知全能で不生不滅である代わりに、永遠に孤独なまま何もない世界に糸の切れた凧のように放り出されるようなものです。実は僕らはまさにその状態にある創造主の分け御霊であり、思い通りになる実相世界を想像力(心)豊かに楽しむための足掛かりとして思い通りにならないこの仮想世界に自ら望んでやってきているのです。ですから想像力(心)を豊かにする事がこの世界の存在意義であり、思い通りにならない事を寧ろ感謝すべきなのです。 選択(自由意志)は幻のような存在であり、どのカードを選んでもマジシャンの意図した通りという手品の如きものです。まずは無償で楽しませようとしてくれているマジシャン(創造主)に感謝しなければいけません。 選択肢が目の前に現れた時に何かを選ぶことで人生を創ろうとするのではなく、普段から良い思念で自分を満たして悪い思念を持たないようにすることを選択し続けなくてはならないのです。創造主はその人の魂にとって常にベストなものを与えてくれているのですから、それを常に愛で解釈して感謝して受け取ることです。そうすれば常に良い選択肢が与えられ、何を選んでも正解になるのです。逆に与えられたものを不平不満や恨みで返しネガティブな思念に満たされている人というのは、ヤクザの夜店のクジのように何を選んでもハズレという選択肢が与えられるのです。 人間は何かを選択する時にはその「選択をする自分」が既に築かれているわけで、選択する時点で考えようとしても時既に遅しなのです。普段からどのように思考(解釈)して生きているのか?感謝の気持ちでいっぱいなのか不平不満や無気力でいっぱいなのか、それによって創造主から何が与えられるかも自分が何を選択するかも既に決まっているのです。結局、自由意志の自由とは選択の自由ではなく解釈の自由なのです。 時間も自由意志同様に幻のようなもので、普段のあなたの思念が既に未来を作っているのであり、思念が強ければ強いほどその未来に引き寄せられるのは当然の事で、選択肢がやってきた時に何かを選ぶことが「自分の意志・自分の力だ」とか「偶然だ・運だ」とか思い込むのは愚かな事です。全てがプログラムされた世界に偶然など存在するはずがなく、クリエイターが我々を楽しませるために全てを「自分がやった」または「偶然・運だ」と思わせているだけです。 人間が自分の力で選択する事で人生を作ろうとするのは創造主からすれば傲慢でしかなく、人生が思い通りにならない事に対する不平不満と恨みでいっぱいになる人生が与えられます。そしてハズレばかり引いていつもイライラして「何をしたってムダだ」と無気力で厭世観の強いネガティヴで嫌な人間になってしまうのです。 カルマ(因果)は人生というRPGの物語の伏線・シナリオであり、カルマに正面から立ち向かってシナリオを回収しようとせず「自由意志は幻なのだから、何をやってもクリエイターのプログラムした通りにしかならないのだろう。それならどんなに自暴自棄な選択をしようと関係ないはずだ」みたいに考える事はとても愚かな事であり、シナリオ(カルマ)をどんどん悪化させて人生という素敵な物語をつまらないものにしてしまいます。そして延々と輪廻の中でカルマ(追試と補講)を繰り返し、楽しいはずの夏休み(浄土)をどんどん目減りさせてしまうのです。 般若心経が教えてくれている通り、全ては幻だからこそ我々は何も恐れずただひたすらに真理(覚り・真の幸せ)を求めて突き進めば良いのです。 創造主は言いました。「結果(真理)に価値があるのではなく、過程(経験)が結果(真理)を価値ならしめるのだ」と。結果(真理)そのものに価値があるのなら、すべての結果(真理)を既に知っている全知全能の創造主が我々を創る意味はありません。どのような経験をしてどのようなルートを通って結果に至ったのか、途中でどれだけの存在を許して愛したか。どれだけ想像力(心)を豊かにしたか、それが人生の価値なのです。 というわけで、普段から真理(覚り・真の幸せ)を追い求め、どんな出会い・どんな出来事も常に愛で解釈して感謝し、常に良い思念で自分を満たすようにしましょう。

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