
今回のご質問↓ 最近教会で自我を捨てなさい!!という言葉をよく聞きます。この場合の自我とはどんなものなのか、具体的に教えてもらえると助かります。自我を捨てた体験談もあれば知りたいです。 ご質問ありがとうございます! 質問者様の通われている教会の牧師先生が意図している「自我」とは何かを察することは難しいのですが、文章を読んで考えたことを述べさせて頂きたいと思います。 まず、教会でよく聞く自我というのは、聖書に書かれている、古い自分という事だと思います。 神様は、罪に堕落し、的外れな生活をしている古い生き方を捨てて、イエス様を身にまとう新しい生き方を勧めます。 主イエスを信じるということは、十字架を経験するということです。 イエスが私たちのために血潮を流されたように、私たちも肉とともに情と欲を十字架につけ、自分の昔の人、品性、自我も十字架につけます。 自我を捨てるというのは、自分の罪を認め、十字架を自分のためのものとして受け取り、常に悔い改める生き方そのもののことを言っているのではないでしょうか。 イエス様が心の中心にいない生き方をしている人は、心の真ん中にいつも『自分』が座っています。 物事を考える時、いつも主軸が自分になります。 しかし、イエス様を受け入れ、自分の十字架を背負っている人は、「イエス様ならどうするだろう」という気持ちが常にあります。 イエス様を模範として生きる生き方に意味を見出し、喜びを感じているからです。 自我を捨てた体験談もという事なので、短く私の救いの証を書かせて頂きます。 思春期真っ盛りで、家族に対していつも腹を立てていた私はある日、限界を感じ神様に怒りをぶつけながら祈っていました。 その時、ある幻をみました。 私は広い砂漠のような場所にいて、遠くにイエス様の十字架が見えました。 遠すぎてよく分からず近づいてみると、十字架にかかるイエス様とその隣にはもう1人の私がいました。 その私の手には釘とかなづちがあり、イエス様の手に釘を打っていました。 私はその時、自己中心的な生活の結末を知り、自分ばかりが傷ついていたと思っていた思いが間違っていたことに気付かされました。 いつも人のことや自分のことにばかり心を向けていた自分が一番見落としていたのは、イエス様の十字架でした。 私はこの時初めてイエス様と出会い、変えられました。 自我を捨てた、というよりも、自我に生きていたことに気付かされ、そこから日々悔い改めながら、今も新しく作り変えられている所です。 このように、心の王座を主イエスから自分に奪い歩むと、苦しくなってしまいます。 救いは、心の王座にイエス様を迎え、主イエス様に導かれていく歩みに向きを変えていきます。 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。 ルカによる福音書 9:23-25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 ヨハネ12:24~25 質問してくださった方の心に主の平安がありますように🕊 またのご質問は悩み相談アカウントのGoogleフォームにお願いいたします🙏
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