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美味しんぼの功罪(主に罪)についての考えをお聞かせいただけますでしょうか。

美味しんぼの主要登場人物は、揃いも揃ってフードサイコパスですよね。 そしてその事は原作者の雁屋哲氏自身が筋金入りのフードサイコパスである事の投影に他ならないと思います。 美味しんぼ以前にも、池波正太郎や檀一雄といったフードサイコパス的な書き手はいたかもしれませんが、マンガの世界では初めてだったと言っていいのではないでしょうか。「包丁人味平」や「ザ・シェフ」を今読むと、フードサイコパス的要素は極めて希薄です。 美味しんぼの功績とは、稀代のフードサイコパスによって次々とフードサイコパス的価値観が繰り出された事に他ならないと思います。言うなれば、食をより深く楽しむための新しい価値観の提示です。 伝統的な製法で作られた食べ物には何らかの必然的な良さがある。 既製品に頼らずともシンプルな手料理は時に最上のおいしさになりうる。 世界には自分たちの知らないおいしいものがまだまだたくさんある。 世の中には特異点的に飛び抜けて上質な食材が存在する。 旧来の権威主義的な美食論(半分この役割を担っていたのが海原雄山)を、部分的には踏襲しつつも、そこに収まりきらない新しい価値観の方向性を指し示すそのスタイルは、当時とても新鮮で衝撃的だったと思います。 その not グルメ but フードサイコパス的な価値観に影響を受け、少なからぬ日本人が、その内なるスードサイコパスを覚醒させたのではないでしょうか。僕自身もそんな典型的なひとりだと自覚しています。 しかし、言わずもがな「美味しんぼ」はフィクションでありエンタメ作品です。 「来週またここに来てください」から続いて、いかにも美味しんぼ的価値観にかなった食べ物を列席者全員が褒め称える、というシークエンスはこの作品の定番的カタルシスですが、現実にはこのようにうまく事が運ぶ事はむしろ稀でしょう。 例えば「塩だけで漬けて乳酸発酵を経た昔ながらの漬物」と「調味液で漬け込まれた近代的な漬物」を目の前に並べられたら、現実的には絶対に票は割れます。いや、美味しんぼ的価値観に正しく合致するはずの前者を支持するのはむしろ少数派なのではないでしょうか。参加者全員フードサイコパスならまた話は別かもしれませんけど。 美味しんぼ的価値観では優れているはずの物が、実際の世間では必ずしも評価されていない。この齟齬を埋めるためにどうしたか。僕は美味しんぼの原罪とはここにあると考えています。 齟齬を埋めるために作者がやったのは「フードサイコパスを文化のヒエラルキーにおける上位者、エリートの位置に据えた」という事です。 ①世の中の食品製造者や飲食店、生産者は、(その規模が大きくなるほど)粗悪な材料を得体の知れない「カガクのチカラ」で粉飾する事で法外な利益を得ている。 ②無知蒙昧な(味音痴な)大衆はそれに騙されっぱなしである。 ③知識や経験、そして繊細な味覚を持つ我々はそんな事には騙されない。我々が大衆を啓蒙して世を正さねばならない。 これが「美味しんぼ」の基本的な世界観です。部分部分の問題意識はわからないでもないのですが、正直全体としてみると、陰謀論と選民思想の佃煮です。 初期の頃は「なんか変わり者でめんどくせえ奴(=山岡士郎)が居るなあ」という程度の感じ、そしてそれが逆張り的な面白さ、判官贔屓的な痛快さだったのが、だんだんそれは作品全体を覆う思想的なトーンになっていった印象です。スピリチュアルな自然派主義とも極めて親和性が高く、その要素も予断なく取り込んでいきました。 「学生さん、とんかつをな、」の名台詞で知られる「とんかつ慕情」を筆頭に、あくまで個人の人生観の中で語られるエピソードは掛け値なしの傑作揃いだと思います。そしてそれだけにとどまらず、個人の価値観の範疇を超えて食を社会問題としても捉え始めたというのも意義ある事だと思います。ただその社会問題の解釈のスタート地点がちょっと偏りすぎだったんしゃないかと僕は思っています。 いや、必ずしも偏った世界観がダメだと言うつもりもないんです。ただこの作品は良くも悪くも影響力が凄まじかった。 「陰謀論と選民思想の世界観」は「アラ探しとマウンティングの物語」を産みました。それが作品世界内部においても、それが影響を与えた現実世界においても、せっかくこの作品が世の中にドロップした多様な食の楽しみを、むしろ減ずる方向に働いてしまった、というのがなんとももったいない、そして罪作りだったのではないかと思っているわけです。

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