単なる批判というか、両者の批判的融合を表した言葉ですね。 「内容なき思考は空虚」、これは、直感なしで思考・思惟することには意味がない、ということです。直感による経験よりも思考を重視する合理論への批判です。 一方、「概念なき直感は盲目」、これは、思考や思惟によって悟性・知性が持っている概念なしに、見たり聞いたりして直感することもできない、いうことです。先天的知識や概念がなくても、知覚や経験をすれば対象を捉えることができると考える経験論への批判です。 で、合理論が陥りやすい「内容なき思考」にならないように、経験のもとになる直感について論じ、そして経験論が陥りやすい「概念なき直感」にもならないように、概念を作り上げる悟性・知性について論じ、そのうえで理性のはたらきと限界を論じる、これがカントの『純粋理性批判』の試みでした。 ちなみに、この言葉は『純粋理性批判』の前半部、感性論一般を論じ終えて(感性の形式が時間・空間であることの論証)、論理学一般(悟性・知性論、量・質・関係・様相の形式についての論証)に移った部分の、冒頭での言葉です。 この言葉の直前で「感性なしでは対象が与えられないし(=感性がないと対象を捉えることができない)、知性(悟性)なしでは対象を思考することができない」と述べています。テキストにもある通り、感性と悟性(知性)の協働がなければ認識はできない、ということをカントはいいたいのですね。 ちなみに、昔の岩波文庫の訳では、「内容なき思考」のところに[直感のない概念]と、訳者が言葉を加えています。こっちのほうがわかりやすいかもしれませんね。直感する感性だけでも、概念を作る思考だけでも、認識はできない。その両方が大事だ、ということです。
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