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信心を頂いた人が、認知症などでボケてしまったら、どうなるのでしょうか?阿弥陀仏の事や、南無阿弥陀仏という言葉すらも忘れてしまったら、再び後生が不安になったり、再び疑いや計らいが出てきたりしないのでしょうか?
信心決定した後に何もかも忘れてしまった人と、信心決定していなくて信じられない人とは、信じ方・疑い方に於いてどの様に違うのでしょうか?
疑蓋が外されて信じている状態とは、記憶が失われても信じていられる信じ方なのでしょうか?

信心を頂いたというのが本当であれば、摂取の光明に摂め取られているので、認知症などで忘れてしまったとしても浄土往生します。 「覚えた、忘れた、信じる、疑う」というのは、私の「考え」なので、それと阿弥陀仏に摂め取られているかどうかは別です。 信心決定して忘れた人と、信心決定していなくて信じられない人の違いは、仏願の生起本末を聞いて疑い無いということがあったかなかったかの違いです。 疑蓋がないというのは、聞いて疑い無いという信心のので、記憶と関係ありません。聞いている信心が信心で、信じ方を論じるのは私の心の持ちようです。

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