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いつもnoteを拝見させていただいています。倉本圭造という方の一連のnoteを読んで、ヒラヤマさんと似た現状把握をしたうえで全く異なる結論を導いていると感じたのですが、もし何か意見があったら伺ってみたいです。よろしくお願いします。

ありがとうございます。いくつか読んでみました。まだ完全に理解してないので後でnoteを書いてみようと思いますが、雑感を。読みづらかったらすいません。 いま発生している状況を細分化した多文化の衝突と見て、それを一元的な価値観で統一するのではなく、その全ての文脈を適宜学習、拾い上げ架橋し、しかも現実的な問題解決まで提案・実装できる新しいリベラルエリート層の出現、それを中心にした対話と社会実装の正のループを広げていくというのは理想的な描像だとは思います。東アジアが中心になれるというのも、台湾のオードリー・タンがトランスカルチュラリズムの実践として示しているビジョンとかを見るに、頷ける部分はあります。この両者の想定はあくまでトップダウン、対話はエリート主導で、他は自由に意見を投げるだけという点で、たしかに私の主張とは違います。ただ、この描像だと、エリート側にものすごく高い能力と寛容さ、そして何より強い動機が要求されます。 まずそもそも、こういう方向性ってインターネット出現当時から形を変えて示されていたと思うんですが、こうはなりませんでした。身も蓋もない言い方すれば、能力以前に、とくに新自由主義的な意味でのエリート側にそこまで全力で包摂のために努力する義理が無いんですよね。倉本さんは、エリートには政治で勝つための絶対的インセンティブがある、としてるように思えます。しかし特にトランプ下のアメリカを観測して思ったことですが、もはやリベラルエリートって政治で負けても対して困らないんですよ。かつてアメリカは赤狩りで知識人はわりと酷い目に会いましたが、現在のトランプ側が反知性主義と言っても、エリートの弾圧はしません。むしろ逆に、より多様な包摂のために動こうとするエリートがリベラル側からパージされうる、という状況になってきています。 結局、市場原理なりアカデミア競争なりは保たれる程度の分断、統治状況なので、その枠内で勝てる人がわざわざ頑張って統治側に回って、しかも自分の価値観を否定する人々を助けるかと言われると、まあ普通しないですよね。実際に殆どのエリートはしませんでした。台湾では中国共産党支配の切実な脅威が逆にエリート層全体にインセンティブを与えた面があると思います。しかし日本も含めて、そこまで危機を真剣に考えるエリート層は、政治に影響を与える規模で出現しうるでしょうか?遠い未来に弾圧されるリスク回避のために人生をかけて統治側に回って努力するより越境して逃げたほうが早いです。第一、中共を始めとする開発独裁国家は、政治思想のないエリートにとってはむしろ快適ではないかという想定もあります。covid-19蔓延で多少、世界観が変わった面はあるかもしれませんが、逃げられる人間とそうでない人間の見え方の格差はむしろ広がったかもしれません。 倉本さんはご本人も相当のエリートであり、よく現実を認識し、能力その他も十分ある人物、のようにも思えます。少なくとも私などよりは遥かに。ただ、それこそヴェーバーのような近代を分析した偉人たちまでに遡る話なんですが、この手の話を真剣に考えるエリートって、冷徹に現実を認識しているようでいて、実際には他のエリートの倫理観に期待し過ぎなんですよね。コスモポリタニズム的な理想と、多様性のもたらす現実と危険性のギャップを理解した上で、それに本気で殉ずる覚悟のある人間は彼らの想定よりずっとずっと少ないと思います。彼ら自身がそうありたいと願っているゆえに、他人もそうだと想定する。これは私には思想家の失敗の典型パターンにも見えます。 結局、多様性と包摂のために努力する利益があるのって第一に非エリート、つまり市場原理で対して勝てないし、越境も難しい人々の側、包摂される側じゃないですか。そういう人々は排外主義的な描像を採用しがちなんですが、私の意見では、これは世界の現状を認識する能力や知識が少し不足しているだけであり、その方が自分たちにとって得だと理解すれば十分に撤回の目はあると思います。そこから団結して、エリート側に要求を突きつけるという方向がまず固まらないと、歴史の方向転換はだいぶ難しい。ごく少数のエリートの活動が影響しうるとしたら、まずこのような下からの動きや組織化のインフラなどを整備する、補助的な役割なのではないでしょうか。 まあ要するに、現状解決のために広くエリートの倫理規範向上に期待するか、非エリートの認識能力の向上に期待するかという点で、結論が別れているんじゃないかと思います。個人的には、前者に失敗し続けた、あるいは本来エリート足り得ない人間に倫理規範を期待しすぎたというのが近代以降の失敗の歴史であり、その路線では多分これからも無理だというのが私の主張の核です。 とはいえ、対立というよりは見方の問題だし、問題提示から解決のビジョンまでをすっきり見せるという意味では倉本さんのパッケージのほうがはるかに優れている、とは思います。この方向が成功すれば素晴らしい、とも思うのですが。

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