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親鸞聖人の信心の定義は本願を聞いて疑心がない事だと表現していますが、これは誤解を招き安く説明不足に感じます。
信心は本願をただ聞いてるだけで、自分の心がどう思っても関係ないしもっと言えば浄土真宗を信じる必要もないと思っています。
疑心がないという事を自分の心が本願はもう疑うことができない本願は本当の事だった!となる事だと誤解し、まだそうなっていないから信心得られていないと思っている人は多いと思います。
疑心がないというのは浄土往生するには、本願を疑っても良いし念仏も称える必要もないし、自分を浄土へ救う本願であると言葉通り聞いているただそれだけです。
これが私の信心の理解ですがどう思われますか。

自分の心に疑心がなくなったかどうかにこだわる人も出てくるというご指摘はごもっともだと思います。 本願を聞いて疑心がないというのは、縮めて書けば本願を聞いているということですが、親鸞聖人が「義心あることなし」「疑うこころのなきなり」と書かれているのでそのように表現した方が良いと私は思っています。 どのように表現するかは人によっていろいろあるとは思いますので、これを書かれた方の表現でもよいと思います。

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