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こんにちは。初めて質問をさせていただくのですが、私は商業誌で漫画を連載していて、今は別の出版社で連載に向けてまずは読切を…!という状況の者です。

漫画を作りながら日々自分はまだまだ勉強不足で、もっともっと試行錯誤を重ねる必要があるなと実感します。特に課題となっているのがキャラクターです。
これは連載していた当時の担当さんやその後担当して頂いた方々にも言われていた事で、キャラクターの感情がリアルじゃない、台詞がどこか他人事のようだ、と言われていました。
自分自身も漫画を描いている時、キャラクターの心情になっているつもりでも、やはりどこか感情移入しきれずに俯瞰してみてしまっている気がします。
この事はリアルの人間関係でもそのような節があり、友達の相談を聞いていても共感して寄り添うことをせず客観的な意見を述べる事の方が多かったなと気付くキッカケになりました。
良くない癖だなと思い直そうと思ったのですが客観的な立場(というより自分の主観?)で見る癖が抜けず気付いた時にはもう自分の意見を述べてしまい、後からその人の立場に立ってみた時の感情を想像して物事を言う…というのを今繰り返してます。
中々すぐには変えられないというのはわかってますが、何とも情けない気持ちになります。
そんな状況ですから漫画の方も結局今でも課題は変わっていません。少しずつ本当に少しずつですが、前よりはキャラクターに入れているのでは…と思うものの商業レベルで考えるとまだ全然足りません。正直焦っています。
一度だけ自分自身がキャラクターに入る事が出来て泣きながら漫画を描いた事がありました。その時は自分の悩みとキャラクターの悩みが一致しており、苦しんだ当時の感情をキャラクターに重ねてキャラクターに入り込めたのですがそれ以降同じ感情の熱量でキャラクターを描けていません。
キャラクターの状況が変わり、悩みが変わればもうその時のように入り込む事が難しく、悩みの原因は違っても悩みの本質は共通しているものがあるはずと共通点を見つけても、やはりいまいちキャラクターには入りきれていないのか描き終えて見返すと一番感情を吐露する場面の台詞がどこか他人行儀に感じてしまいます。キャラクターが泣いている時に自分が泣くこともありません。漫画を描いている時には自分の中でキャラクターは動き回り、その感情も伝わってきているのに、寄り添いきれず俯瞰で見ている自分の図はまさにリアルの人間関係を表しているなと感じています。

ただ実は今、ずっと仕事をしたかった出版社に持ち込みをし、見てもらいたかった編集の方に担当して貰っています。そして色々とアドバイスを頂いては試行錯誤と模索を繰り返し、トライ&エラーをし続けています。この頂いたチャンスをどうしても逃したくありません。
そのためにも漫画の課題は他にも色々ありますが、まずは今何よりも一番大きなこの課題をどうにか克服したいともがいています。そのために編集さんに言われたアドバイスや自分でも思いつく方法を色々と試してみてもいます。おかげで少しずつ改善はされてきているようですがそれでも現状まだ足りないです。特に苦悩や悲しさ、負の感情を描く時に躓いています。
キャラクターに寄り添い、キャラクターをちゃんと描けるようになるために良いアプローチなどあれば教えて頂けると嬉しいです。
そもそも畑中さんの目線で見た時に、キャラクターがうまく描けていない原因はキャラクターの感情に寄り添えていないからなのかどうかも含めてご意見を頂けたら嬉しいです。
長々と書いてしまい申し訳ありません。よろしくお願いいたします。

漫画家として致命的な悪癖を持っているのでそれを直す方法を教えてくれ…という相談かと思うのですが、まず一旦考え方をリセットしましょうか。 漫画に限らず、就活や仕事、スポーツ等々、なんでもそうですが能力を活かす為には、まずそもそも自分の持ってる能力を知る必要があります。 そして能力と言っても、持っているポテンシャルに対して成長段階の部分や、変えられない個性・特性、その個性ゆえの強み・弱点…などなど色んな目線で能力を見つめることになるわけですが、これらの見極めを間違ってしまうと、無用な苦戦を強いられます。 今まであなたは、「客観」より「主観」が大切と捉え、客観視してしまうのは漫画家として下手な状態だから、主観性を強める方向で上手くならなければ…!と努力してきた訳です。 でも、そもそも「客観」と「主観」って、「攻撃力」と「守備力」ぐらい違う能力じゃないですかね? 「主観での語り口を強くしたい」と思うのはいいですが、「客観視してしまう癖は自分の弱点だ」と認識されているのは、かなり変な思い込みです。 失礼な質問だったら本当に申し訳ないのですが、「一人称」「三人称」といった「人称」の概念は理解されていますか? 「僕は怒っていた」というのは、主人公の視点、一人称で書かれた文章ですね。 「メロスは激怒した」というのは、主人公以外の第三者の目線、三人称で書かれた文章です。 国語の授業で、一人称で書かれた小説と三人称の場合の違いを習ったりもしていると思います。 だから、理解はされてるんだけど、それを意識したことがないのでは? 小説は一目瞭然でわかりやすいですが、実はドラマや漫画も「語り手が誰なのか?」「視点どこにあるのか?」を意識すること、つまり「人称」を意識することは物語を作る上での基本テクニックです。 一人称で物語を紡ぐと、一般的に臨場感が増すと言われています。主人公が見ている視点だけ物語が進んでいくと、読者は主人公と気持ちをリンクさせやすく、自分と性格の違う人間であってもまるで自分自身が別人になったかのように登場人物と一緒に泣き笑いできたりする。いい意味で視野が深く狭くなっていく。 一方、マルチ視点、神視点、色んな言い方で皆が説明しているのが三人称視点で描かれた物語です。私はいわゆる「狂言回し」がいる物語、つまり一人称で語る人間が実は脇役で、その人間から見た主人公やその周りで起こった出来事を語る構造の物語も三人称視点と思って編集しています。 視点が複数となると、主人公が知らないことを描きやすくなるので、入り組んだ物語が描きやすくなります。なので大抵の連載は、複数視点の構造を選ばざる得なくなります。 で、ここからがポイントなんですけど、複数視点を作る時に一人称の語り部を増やしていく…というやり方をする作家さんが割といらっしゃいます。 こういう作家さんは大抵、新人時代のよみきりは一人称で物語を描いていて、なので連載になると「〇〇が主役回!」というのを爆誕させ、読者を沸かせてゆきます。 で、おそらくなんですが、知らず知らずのうちに、そういう風に漫画を描かねば!と思い込んでらっしゃるんじゃないですかね? でも、ネームを読んでみないと断言はできませんが、質問文を読む限り、あなたは短編であっても三人称で物語を描きたいタイプなのでは?? 一度、「視点」を意識して、NHKの朝ドラを観てみてはどうでしょうか? 朝ドラという枠は本当に興味深いんですけど、基本「三人称」つまり主人公以外の人間による視点でドラマが作られています。 今放送中の『舞い上がれ!』は、空を飛ぶばらもん凧が語り部です。『ごちそうさん』は確か、亡くなった祖母がぬか漬けに転生?して語り部になっていましたっけ。 『あまちゃん』は、祖母・母・娘がそれぞれ語り部になるのですが、興味深いのは全員登場している人物にも関わらず、たとえば娘に辛いことがあった時に、そこに入るモノローグは、その場にいない祖母目線で語られたりするのです。 それにより何が起こるかと言うと、娘視点では自分の嫌な部分がさく裂してしまって恥ずかしくて死にそうな場面が、祖母目線では若さゆえの孫の可愛さとして描かれたりする。 年長者からの客観的な別視点に触れることで、視聴者は泣かされたり笑わされたりする。 山際淳司さんの『江夏の21球』という短編ノンフィクションを読んでみることもおすすめします。 「感情を吐露する場面の台詞がどこか他人行儀に感じてしまいます」とありますが、別によくないですか? 感情なんて吐露したくないんですよ、きっと。 あなた自身が、もし漫画の中の状況になったとしても、おそらく吐露したりしない方なのでは? それの何が悪いんでしょうか? それでいいんですよ。 でも、そういう人を見て何を思うか。どんな風にその人に寄り添うのか。その視点はあるのでは? あなたはきっと、そういう語り口で物語を紡ぐタイプの作家さんなんだと思います。 一旦、これまでの考えを捨てて、客観的に自分の能力について考えてみてください。 三人称で描かれた作品をいくつか意識的に触れてみて、どちらが得意か、自分の個性にとって有利か考えてみてください。 楽になりますように。

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