私は子供が生まれる前に、障害を持つ子の親による手記や、障害児を診る医師・福祉施設による本を数百冊読んで「それでも子供を受け入れられるか」を予め自問してきました。特に悩んだのは自閉症の場合で、子供が「お父さん」と言えなくても、コミュニケーションが取れない子でも、だっこができない子でも、それでも受け入れられるかというのはすぐに答えが出ない問いでした。同じ知的障害でもダウン症の子の親は幸福度が高めなのに自閉症の子の親は幸福度が顕著に低いという統計もあり、一括りに「障害」とするのもあまりに雑だということも学びました。何らかの障害を持って生まれてくる子は100人中6~8人、うち自閉症は1~3人であり、クラスに1人はいるという、十分に想定し得る割合です。悩んだ挙句に、受け入れられるかどうかの確証は持てないけれども、それでも子供が欲しいと思って踏み切ったという経緯があります。 結果として我が子は「パパだいちゅき!」と言って抱っこをせがんでくれる子になり、その点で私の「お父さんと呼んでほしい」「だっこさせてほしい」というエゴは既に十分すぎるほど満たされています。この願いにしたって十分にエゴであり、この世には子を愛せない親がたくさんいて、彼らは(もちろん子供も)大いに苦しんでいることを考えれば、愛くるしい子供から愛されているだけでも贅沢の極みです。「子は3歳までに一生分の親孝行をする」という言説は大いに納得できるものでした。子育てを損得勘定で捉えるならば、既に我が子は私に過剰なリターンをくれているので、これからの子供への課金は全て投資ではなく「返済」だとみなしています。この点は夫婦ともに認識は変わりません。金融屋なので負債を踏み倒したくはありません。 この文脈では、子供が行く大学がハーバードだろうが日東駒専だろうが親としては誤差でしかなく、本人がそれで充実した生活が送れるならもう何でも構いません。"返済"した資金で好きなように使ってくださいと思っています。以前に別の人から質問された「子供がスポーツや芸術の道に進もうとしたらどうするか」「子供が大学に行かないと言い出したらどうするか」のほうがよほど良い質問で、私の周りは日東駒専含めて大学卒業者しかいないので、大学にそもそも行かなかった場合の進路の想像がつかないという点で不安になるのは否めません。しかしそれにしたって私の偏見である点は常に頭の隅に置いています。日本を含め先進諸国の人の半分は大学に行かないのですから。 この世には優劣を測る多種多様な尺度があり、「大学の入試の偏差値」はその一つでしかありません。多感な時期にその尺度が刷り込まれてしまうので存在感が大きくなってしまいますが、大学の良し悪しを測る尺度としてさえも必ずしも機能していないほどです(例えば研究者としてどの大学に所属すべきかは大学名でなく研究室の良し悪しで決めるべきですし)。まして社会における尺度はもっと多様です。「あなたは子供がプロ野球選手どころか甲子園にさえ行けなかった時に、綺麗ごと抜きにして受け入れれますか?正直に。」と言われても大半の人は「は?」と思うでしょう。この質問からわかるのは、質問者が野球という尺度でしか人生を測れなくなっているということであり、かけるべき言葉は「人生は野球だけではないよ」です。もちろん野球人生を歩んでいる人もたくさんいるので彼らの人生観や尺度を否定するものではありませんが、その尺度は社会一般に共有されているものではありません。大学に行くという行為自体が逆に忌避されている地域さえあるくらいですから、そんな地域では「あなたは子供が大学に行くと言っても綺麗ごと抜きに受け入れられるんですか?正直に。」みたいな質問が飛んでいるのかもしれません。 大学入試の偏差値を尺度とした価値観を強烈に植え付けられているように見受けられるので、まずはその呪縛から解放されることを願っております。
