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願成就文の「聞其名号」は私が救われるための大事な御文だと思いますが、ではその「聞其名号」とは、「私が耳をすましてお救いの南無阿弥陀仏をきこうとする」というよりは、「お救いの南無阿弥陀仏がもう既に私に聞こえていたということに気付く」といった方がよいのでしょうか?

南無阿弥陀仏をすでに称えた事もあり、南無阿弥陀仏のいわれを聞いてきた人からすれば、「すでに聞いていた事実」があります。 すでに聞いていたことではあったけれども、それがその通りだったと知らされるというのが事実に近い表現だと思います。

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