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前回「哲学」という学問の定義を質問した者です。
哲学者・出口康夫さんのインタビューに「一定のスタイルやレベルを保っていれば、哲学はどんな対象を扱っても成立する学問」と書いてありました。
自由な学問である哲学がそれでも保たなければならない「一定のスタイル」って何でしょうか?
前回お答えいただいたように、論理的整合性ですか?

こちらのインタビューですね。 http://toshin-sekai.com/interview/11/ 出口康夫さんが何を指して「一定のスタイル」と言っているのかはわかりません。ですが、少なくとも「普遍的であること」は含まれているのではないかと思います。 私は前回、「哲学は人々が幸せになるための学問」だと思っているとお答えしましたが、何かについての「誰にでも通じる根拠を伴った説明」を作る学問だとも言えると思っています。実際には、時代や人種や文化を超えて絶対に通じる理屈なんてないのかも知れませんし、絶対があったらあったで別の問題が生まれる気もしますけど、私は、多くの哲学者はそれを大切にしてきたし、現在もそうされていると思っています。 このインタビューから引用すると、"「ものの考え方の共有」は、人類にとって決定的に重要なサバイバルの戦略。それを学問として、高度に組織的・専門的に押し進めているのが哲学なのです。"とあります。共有することを目的としているのに、普遍性を軽視してしまったら本末転倒ですよね。だから普遍性は哲学にとってとても大切なものだと思います。 ここでの共有は「生き抜くために有益なものの考え方」の共有のことです。生き抜くことに関係なかったり、有益でなかったりするものは該当しません。 哲学というのは、人が生き抜くためのものだと思うのです。そうだとすれば、すべてを俯瞰して考えることができないと、実現できないものだと思うのです。 物理・歴史・芸術・経済・心理・医療といった分野の垣根を超えて捉えられないと、すべての辻褄を合わせた普遍的な概念なんて作れません。このインタビューでは引用部分の後に大局観についても語られていて、読んでいてとても気分が良いです。今回知ることができたのは質問者さんのおかげです。ありがとうございます。 さて、質問者さんは「論理的整合性ですか?」と聞かれていますが、それもひとつです。論理的に整合していないと、他者に説明しても通じません。いくら普遍的な概念を作れても、他者に通じなければ共有できません。だから論理的整合性も必要です。 ですが、論理的に整合するし、普遍性もあるけれど、「人の幸せを奪う考え方」があるとしたら、おそらく反発が起きるでしょう。この場合、よい考え方としては共有されないと思います。 たとえばトロッコ問題のように、どちらを選んでも誰かが不幸になる場面というのは現実的にあり得ます。そういう問題に直面した時に、最大多数の最大幸福という功利主義的な考え方は必ず出てくるものだと思いますが、たいていは反発を受けるでしょう。それは、論理的な整合とか普遍性とかの前に、一部の人を切り捨てて全体の幸せを優先しようとするからだと思います。生き抜けない側にされてはたまったもんじゃないですから反発されるのは当然でしょう。 こういう問題の時に、自己犠牲的な善を主張する人もいますが、自分は自己犠牲で満足できるとしても、他者も同じように満足できるとは限らないという点を見落としていることがあります。もし普遍的であるなら、他者も妥当だと納得できなければなりません。ですが、自分の正義を他者に押し付けるだけでは、納得させることはできないでしょう。それにはやはり、「無理なく納得できる理屈」が必要なのだと思います。 そして私はもう一つ、「徳という視点」が必要だと思っています。 徳を言い換えると「人のためになること」です。私のためになったり、あなたのためになったり、他の誰かのためになること。その視点を持たないものになった時、どんなに知識があっても論理的でも普遍的でも、それはたぶん哲学とは呼ばれないものになると思います。 ですから、「哲学が保つべき一定のスタイルとは何か?」に対する私の結論は、 ・論理的整合性があること ・普遍的であること ・徳という視点があること の3つとも備えていること…です。 以上です。

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