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時折、奇跡講座について触れられていますが、奇跡講座についてどう思われますか?

こんにちは。ご質問ありがとうございます🙂 奇跡講座が教えていることをわたしなりに要約すると次の3点になります。 「すべてはひとつであること」 コースでは神と聖霊と神の子である人の三位一体の概念が登場しますが、すべてはひとつですから、すべては神であり、すべては聖霊であり、すべては神の子(神の被造物)であるとと言えます。そしてこのことから、神=聖霊=神の子であることが明らかになります。 「そのように知覚できないこと(つまり神から分離していること)だけが人間の唯一の罪である」 これが意味しているのは、実際には罪というのは幻想なので、罪などないということです。 「コースはこの誤った知覚を訂正するものである。この知覚の訂正こそが奇跡であり、救済である」 なぜわたしがこのように簡単に説明できるかというと、これってまんま非二元(ノンデュアリティ)だからなんですよね。そう、ずばり言うと奇跡講座とはキリスト教的な概念を用いたノンデュアリティの教えなのです。さらにいえば、奇跡講座はバクティ・ヨーガ(帰依の道、明け渡しの道)でもあります。コースは粘り強く丁寧に、最初は分からなくてもいいからと前置きしながらエゴによる分離した知覚を訂正し、神にそれ(知覚)を明け渡すように促していますね。ですからコースは明け渡しを教えるノンデュアリティです。 わたしは非二元でもジュニャーナ・ヨーガ(智慧の道、哲学的思索の道)を通ってきた者ですが、ジュニャーナもバクティもたどり着くところは同じです。そのため今のわたしが奇跡講座を理解することは容易ですが、学びの段階にあってはジュニャーナが向く人もいれば、バクティが向く人もいることでしょう。とはいえ、どちらが自分に向いているかはある程度学んでみないと分かりませんから、意欲のある人は両方とも手をつけてみてもよいはずです。なお、非二元を学ぶのであればラメッシ・バルセカールをおすすめします。西洋人の書いたノンデュアリティ本は読まないほうがよいと思います。 奇跡講座は本質的にはバクティなんですが、その割にというか、概念の独特さもあってか、なかなか難解であるようにも思いますね。それは大元のテクストが編まれた経緯や、それが日本語に訳されるプロセスを経た結果だと思うのですが、実際そうである以上は仕方がありません。 その点でいえば、個人的には以前紹介したジョセフ・ベナーの「インパーソナル・ライフ」を先に読んでから奇跡講座に取り組めば、バクティの感覚にすんなり入っていきやすいのではないかと思います。もちろん、すでに奇跡講座を学んでいる人にもジョセフ・ベナーはおすすめですよ。 また、奇跡講座は本来、独学が基本であるようにわたしは思います。もちろん、誰かに教わったり、一緒に学んだりすることを否定するつもりはまったくないのですが、奇跡講座のような霊的な情報はそれがもたらされること自体が奇跡であり、コースの言葉でいえば聖霊の導きなのです。ですからわたしが思うには、もたらされた情報を読み解いて自らを救済するだけの力がその人自身には必ず備わっているはずです。 もちろん、だからといって、すぐには理解できないかもしれません。場合によってはいったん学習をやめて、時間を置いてふたたび取り組む必要があるかもしれません。そういうものだと思うんですね。分からないなというときに、誰かに教わろうとしてもおそらくあまり成果はないでしょう。なぜなら、分かるということは頭での理解ではなく、知覚が変容した結果として起こることだからです。 ですから、教師やコミュニティに最初から頼るのではなく、自分の内なる力を信じてコースが語る言葉と向き合ってみられることを強くおすすめいたします。そして、つけ加えるなら、ワークブックのワークを必ず「実践」することですね。騙されたと思ってやることです。ワークブックに書いてあることを読んで理解して分かったつもりになってはいけませんよ。なぜならワークブックは理解をもたらすためのものではなく、理解というプロセスを経ずに知覚を書き換えるためのものだからです。 理解をもたらす教えはジュニャーナです。ジュニャーナでは理解が知覚の変容を促すのですが、バクティにおいては理解はかえって知覚の変容を妨げます。ここがポイントですので、よく覚えておいてくださいね。なお、ホーキンズ博士は奇跡講座について、ワークブックだけでよいと言っていたそうです。わたしはテキストブックには目を通していないのでこれ以上の言及はできませんが、これも参考として覚えておいてください。 さて、今回の回答はこれで以上になります。お役に立てましたら幸いに思います。読んでくださってありがとうございました🙂

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