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阿弥陀仏の本願に、真実と方便があると、親鸞様はお示しになっておられます。具体的には十九願と二十願ですが、もしこの願がなければ私たちは迷うことはなかったのではないか?またこの願を悲願と味わっておられる親鸞様のことを思うと、やはり必須であったということでしょうか?宮田様はどう味わっておられますか

19願、20願で迷うというのは、私に関して言えば親鸞会で「19願を通らねば救われないので、まず善を実行せよ」と教えられたことにあたると思います。しかし、これは阿弥陀仏が19願、20願を建てられたことによってではなく、それを会の都合のように教えた会の側によることです。 阿弥陀仏の四十八願に不要なものはありません。 ただ、親鸞聖人が方便願といわれた際は、「その願をまず実行してからだ」ではなく、「そういわねば分からない人のために仮に建てるが、必ず捨てるもの」という意味でいわれたものです。 方便とはどういうものか、という味わいについては、親鸞聖人がどのように見ていかれたかということによって見るしかありません。 その意味では、親鸞聖人は「19願、20願は必須だからみんな実行するように」とは教えておられません。

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