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次のような解釈で合っているでしょうか。
本願が成就したということは法蔵菩薩がすべてのものを仏にするだけの功徳を積んで、すべてのものがいつかの未来に仏になることが決まったということ。
阿弥陀仏になられてからは積んだ功徳(=南無阿弥陀仏)を与えようと働かれている。
ただし阿弥陀仏の救いは本人が望んでもいないのに黙って勝手に救う救いではなく、本人が望んだときに与える、自由意志を重んじた救いなので、関心すらない人には与えることができない。
そのためまだまだ救われていない人が大勢いる。
ただし自由意志を重んじると言っても救いを求めている人には縁を通して少しずつ気持ちに影響を与えて阿弥陀仏の救いに預かれるようにお育てをされている。
疑いがあるうちは阿弥陀仏に任せられないというのも、自由意志によって自力で計らうことを選んでいるということ。
阿弥陀仏に任せられるようになることを望んでお聴聞を続けていけばいずれそうなる。
間違いがあればご指摘いただけるとありがたいです。

「本人が望んだ時に与えられる」という意味合いではありません。 ずっと私を呼び覚まし続けられる声によって、私がそれを聞いたということです。譬えれば、ずっとおこし続けられていた人が、やっと起きたというものです。

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